簸川平野のきりはれて

 『神話と伝説に育まれた日本のふるさと出雲』と呼ばれて久しく 如何にも古いものばかりの 出雲 でしたが 離れたうちに少しずつ新しい出雲に変わっていました。  出雲神話の八岐大蛇(ヤマタノオロチ)伝説の船通山(センツウザン)から流れ出し、宍道湖を経由し、日本海に流れる一級河川斐伊川(ヒイカワ)が、中国山地から最初に原手に出た所に創った広大な肥沃な平野を、小学校では 簸川平野(ヒカワヘイヤ)と習いました。 今、それを 出雲平野 と呼ぶ人が増えました。いつの間にか知らないうちに変わってしまった事のひとつです。 しかし、今なら見る角度をほんの少しばかり変えると、懐かしい 昔の 出雲 が見えてきます。 これから先、更に何が消え、何が残るでしょうか? 自分なりに拘りを持ちながら 見つめて行きたいと思います。
 四絡(ヨツガネ)小学校卒  ja4ioc
 (写真:出雲ドーム:2005/9写)            

ヨキミセサカエル

金銭登録機?(レジ)のある風景

IMG_9703 スーパーマーケットもホームセンターでもチェックアウト待ちは同じ様になりました。小学校の通学路の横断歩道の縁にペンキで書いてある足跡マークが床に描いてあります。
 コロナが騒がれ始めた当初は直ぐに元に戻ると思っていましたが、思いに反し、感染防御設備は取り敢えずお茶を濁した程度の物から恒久的なものに変わりつつあり、世の中の常識も大きく変わりつつあります。
 レジを取り囲む天井からのシートも、取って付けた様な薄っぺらなものから、高級感?溢れるものに変わりつつあります。コロナショックの反動が更に心配されますが、感染者の多い地区は想像以上のストレスが溜まっているのではと思います。島根では陽性反応が出た感染者が24名居ました。出雲の田舎でも「まことしやかにささやかれた」噂が各所で発生しましたが、ひと月経てば其の殆どがデマだったと当時を振り返る人が沢山いました。不安から発生するデマは一気に広がるものだと身近に感じました。

 特効薬が出来るまでは根本的な解決にはならない事が一般人にも次第に分かり始めて来ました。その延長線上に 『オリンピックの中止も有るのだろうなー』と思う人が少しずつ増えて来た気がします。
 東京湾に『白い大きな船』がやって来た時、芸能人のスキャンダルと同レベルで面白おかしく放送していたワイドショウの各MCの得意そうな顔が浮かんで来ます。以前の様に漫才やコントや漫談でも遣っておればいいものを! と直ぐにチャンネル変える癖が付きました。

 未だ半年にも成りませんが遠い昔の事の様に感じます・・・

ヨキミセサカエル  (良き店栄える)

ncr22-07_bpc1961_l 今、昔懐かしいNHK朝ドラの『おしん』の再放送をしています。過去にも見た気がするので今回が初めて再放送ではないらしいですが・・・
 ドラマは『ダイコン飯』の時代から大きく進んで、おしん役は音羽信子が演じます。物語は丁度1960年代に入った頃迄進んで居て、当時珍しかった個人スーパーを開店した頃です。日本に流通革命が始まる前で個人スーパーが出来始める頃の時代を描く。”セルフサービス方式”と云う今では陳腐に為った言葉も飛び出します。
 陳列棚から買いたい物を自分で籠に入れ、最後に纏めてレジスターで計算して貰い、支払いをすると云う現在では当たり前の小売店のスタイルの始まりの頃・・・。
 この中で写真の計算機が登場する。当時はレジスターと呼ばず、『金銭登録機(キンセントウロクキ)』と厳つい名前で呼んでいます。 ドラマではキャンディーズのメンバーだった田中好子がチェックアウトのオネーチャンを演ずる。

 中央に5桁の金額ボタンが在り、右端の列にヨキミセサカエルの8部門別に一日の売り上げ集計しながら、同時に個人の売り上げ計算する優れもの。勿論計算は機械的に歯車を廻して計算する。左中段部からレシートが出て、その下に記録紙が印刷保存される。右側にハンドルを差す穴が在って停電の時はハンドルをグルグル廻す。

 やがて金銭登録機の名称は レジスター(レジ)に変わり、日本中の隅々までが大手、個人の違いは有っても”セルフサービス方式”のスーパーマーケット(スーパー)になってしまいました。1970年頃からは食品に限らず全ての部門で現在の販売方式に変わりました。そして全国の片田舎にまで全国展開する大手スーパーが進出しました。しかし、80年代に為ると、小さな店舗に商品数を絞って『今必要な商品!』をコンパクトに並べたコンビニエンスストアーと云う聞き慣れぬ店が出来始めました。こんな小さな店で大型スーパーに太刀打ち出来るのかと思うと、いつの間にか個人スーパーは勿論、全国レベルの大手スーパーでさえも次第に元気を無くして行きました。昭和も終わりに近づくと全国に展開する大手のコンビニと新たに地方からのドラッグストアー風の新生の店が街中に目立ち始めました。

 平成の大合併を済ませ、5、6年前から出雲では ”スーパー” の開店ラッシュで『コスモス』や『ヒマワリ』が年中咲き乱れています・・・

 写真は旧社名:日本ナショナル金銭登録機株式会社の22号レジスターで全面と後面にNCRの銘板(真鍮:しんちゅう)が付いて居ました。”セルフサービス方式”には『必要不可欠』な『三種の神器』だったに違いありません!

ドラマを見ていると『セルフサービス方式の販売店』とか、『金銭登録機(キンセントウロクキ)』と云う陳腐なセリフを聞く度に、このレジスターが在る光景はもう半世紀以上も昔の光景だと気付く・・・
 

新幹線にビュッフェが在った頃

 1970年4月に、大阪梅田営業所に勤務することになった。その1ヶ月前に始まった万国博覧会の為、大阪は蜂の巣を突いた様な騒ぎだった。 その4月8日夕刻、天六(テンロク:天神橋筋六丁目)で起きた、死者79名と云う、悲惨なガス爆発の現場に近かった。
pg  その頃の思い出に、東海道新幹線が有る。
1964年10月10日の東京オリンピックに合わせ、直前の10月1日開通した。当時の新幹線には、食堂車ではなく、軽食をサービスする『ビュッフェ』と呼ばれる車両が、一等車を挟んで2ヶ所に有った。帝国ホテル 日本食堂 ビユッフェ東京 の3社が列車毎に、それぞれに運営していたと思う。当時はまだ、駆け出しの若造が、客として乗り込む程、新幹線が一般的で無かったし、乗客としてビュッフェを利用した事はなかった。  当時の新幹線は新大阪駅迄。新大阪駅の周辺は、あちこちに更地が沢山あり、今の面影はない。当時でも、新たに鉄道施設を作るに当たって、一番の課題は用地確保で有ったろう。『用地が確保出来れば、もうその事業は半分以上出来たも同じ!』と云われる程、用地確保には苦労したらしい。
 大阪駅に近いながら、淀川を挟んだ対岸の此処は、広い土地を確保しやすかったと思われる。広々とした、新鮮味に溢れた、機能的なデザインの駅だった。流石に、更に広い土地が必要な車両基地までは作れず、少し離れた摂津市に鳥飼車両基地が作られた。車両基地には新幹線車両が何列も並んでいた。兎に角、『広い』との思い出しか無い。勿論、一般人は入れないし、鉄道ファンでも、それを実際に体験した人は少ないだろう。

imagesSI1TXKRM さて、その新幹線のビュッフェにチェックアウトのレジスターが1台ずつ載っていた。当時の東海道新幹線は新大阪駅迄だったから、修理依頼を梅田営業所が受け付けていた。『列車番号と到着時間、東京寄り、大阪寄り(車輌の前側か後側か)、の指示と、故障内容の連絡』があった。直ぐに、付近に居る技術者がポケットベルで呼び出され、新大阪駅に駆け付ける。

3

 事務所に着くと、到着ホームと到着時間、停車時間、その後の行き先(ひかり・こだまor鳥飼車両基地)を確認し、時間に合わせ、ビュッフェ車輌が止まるホームの位置で待つ。乗客が降りるのを待って、直ぐに乗り込む。列車は停車後、列車番号を変え、東京へ折り返すのが殆どだったが、客を乗せず、鳥飼車両基地へ入る列車も有った。ホームには車輌を清掃する人も待機していた。故障は、レシートの印刷が薄くなったというのが殆どで、インクリボン交換とインクの補充で数分で終わった。もっとも、停車時間内に修理出来ない様な故障については、敢えて”列車内で修理しない”という取り決めになっていた。仮に修理が長引き、出発してしまうと、乗客以外を列車に乗せてはダメと云う法規(?)に触れるからだと聞いた気がする。とは言っても、技術者魂が変に働き、修理してしまおうと思い、修理し始めたが、思う以上の故障の為、出発時間に間に合わない事も稀に有ったらしい。
 列車に依っては直接鳥飼車輌基地へ行くことも有った。いざ行ってみると、想像以上に広く、整然と並んでいる同じ格好の車輌の中から、目的の車輌を見つけても、列車内を移動するのに大変だった思い出がある。

 やがて、新幹線は更に西へ(岡山)と伸び、速度は一段と上昇する。 それと共に、新幹線に乗る人から”旅情”気分が抜け、単純に移動手段と捉える人が増た。次第に、食堂車、ビュフェの利用車が減った。世の中が豊かになり、グリーン車の需要が増え出した。列車構成が食堂車、ビュフェを止め、グリーン車を増やし、更に高速な新型車両に変わってきた。
 1964年に開通した時、東京・新大阪間は4時間。翌年3時間10分になり、2007年には2時間25分になった。
それ以上に驚くのは列車の本数。2010年4月1日の東京駅発の列車は、「のぞみ」88本 「ひかり」30本 「こだま」36本と、通勤列車並みの過密な運行。

 満を持して、リニヤ新幹線の実施計画が発表された。世間は単純に都市間移動のスピードアップの為と思いがち、中には『これ以上のスピードは必要ない!』と云う人まで居る。しかし、今の東海道新幹線では、もうこれ以上の人を捌けない。新しい新幹線敷設の一番の目的は、スピードアップでなく、増え続ける主要都市間の大量移送を分担して、どう捌くか?だろうと思う。 リニア新幹線の売りは、『品川⇔新大阪間が1時間7分になる(2045年)』と言うもの。クドクドと、『輸送力アップ』の為の、長々の講釈よりは、『スピードアップ』と云う謳い文句(うたいもんく=キャッチコピー) が手っ取り早いと考えたのだろう。

 既に新幹線の『食堂車、ビュフェから車窓を眺めて旅情に浸る』と云う長閑な時代は終わった。今は列車に乗る前に、コンビニや、駅や、デパ地下の、充実した弁当、総菜売り場が乗客の胃袋を満たす。

hokuriku新幹線3 







 いよいよ、東京と金沢を、およそ2時間半で結ぶ 北陸新幹線 が3月14日に開業する。高度成長期から、この地で長く続いた、鉄道と航空業界との、上京客の争奪戦は、千秋楽に横綱の二人が、土俵中央でガップリと 四つに組み、いよいよ佳境に差し掛かった場面と重なりあう。  サテサテ、軍配はどちらに上がるやら・・・

 それはそうと、1970年、新大阪駅のホームに立ち、ビュッフェが二つ有る 0系新幹線の到着を待った時から、45年が過ぎてしまったと云うことか ・・・

 あの頃、既に囁かれていた、日本列島を新幹線網で継ぐと云う壮大な”全国新幹線鉄道網構想”も、点線で描かれた計画路線が、次第に実現化され、列島の地図全体に描かれた、実現しそうもないと思われた”点線”は、時代と共に少しずつ、実線に替わって行った。 しかしながら、更に陸の孤島と化した 山陰出雲 には、未だ点線で書かれた計画路線さえも来ない。

もっとも、ジモティーには新幹線より、山陰の日本海沿いを一気に貫く高速道路の全線開通の方が、何倍も嬉しく、待ち遠しいのだが・・・

 陸の孤島と呼ばれる山陰には スタバやセブンイレブンが開店する時の新聞の見出しには『いよいよ最後の県に出店・・・』とか『スタバは無くても 砂場 が在る』とかの他の所にはない枕詞が付く?
  トホホ

語呂合わせの世界。


18782 を無理矢理 いやなやつ と読むとすれば、これが二人いれば

18782+18782=37564 となり

            37564 みなごろし(皆殺し)  となる そうだ。   
                          
  ま、それはそれ。

  昔、加算機というのが有って(足し算と、引き算を歯車でする仕組みの機械)誤計算の修理の前後に試験をする時、正常に計算するか、あるテストをする。

 加減算を数十回、数百回テストをするわけだが、 いちいち何を何回足したか数えているのは大変な為、ある試験方法が有った。

 142857 と打ち込み、数十回加算していく。7の倍数回なら6桁を超えた場合、超えた桁を下に足せば999999となる。 7の倍数以外は同じように6桁 を超えた数字を下の桁に足せば 142857  となり いちいち何を何回足した か覚えておく必要はなく、機械が正しい計算をしている事が分かる。
 ここら辺は数学でそうなる事は説明できるのだろうが、縁遠い。
 
 計算機の歯車の歯の山が一桁分に10個在って、一回りすると上の桁の歯車を一個 廻す仕組みにな っていた。如何にも10進法でわかりやすい。
 
oli2 しかし思えば加算機というのは電卓の出現と共に一気に消えた。タイガー計算機と いう会社が有ったが今はどうなっただろうか。
 
 やがて、ワープロと言うのが出て来てタイプライターが消えていく。
 オリベッテイーというイタリアのタイプライター会社はどうなっただろうか

『ヨキミセサカエル』と云う8個の部門キーが付いたレジスターも見なくなった。今のレジは、金額を始めとする商品情報を記載したバーコードをレーザースキャナーで読み取るのだから、金額を打ち込む事自体無い。

次から次へと、新しい便利な機械が世の中にリリースされて行く。それでも人は、『もっと便利な物!』をと求め続ける。更に便利で効率的なものが出ると、古いものは一気に消える。
  しかし、いつの時代も、世の中の流れに逆行して、一世代、二世代前の物に異常なまでに固執する人が居て、そして、その人達のために保修サービスを営いとするする人が生じる。リリース以来、改良を重ね、機能を追求した結果生まれた、機能美に憧れる余り、時代に取り残された”尼子さん”(あまごさん:方言)たちに異常なまでに拘るのは、最早”もったいない”の域を超えた ”道楽”でしか無いことに気付かない。
 しかし、その道楽に付き合うかのように、webにはたくさんの情報が出て来る。(写真のライプライターの修理販売をしているところも出て来た)

  そのWebで思い出したが、この十年で IT技術の発達が一般レベルまで広がったことに驚愕。ミレニアムの頃は IT と云う言葉自体を知らない人が沢山居たのに・・・。そしてその頃、ISDNと云う回線とインターネット常時接続が羨ましく思えたのに・・・
手持ちのデジタルカメラが30万画素で、直ぐに携帯付属のカメラに追い越されたことも・・・

 あの頃、日進月歩で日々向上するPCの性能に、待てばもっと安くて良いものが出ると購入を躊躇い、結局は乗り遅れてしまった人。 これは便利なものと老眼鏡を掛けながらコタツに入って、PCを開き、指一本を使いながら『一太郎』のソフトで老人会の案内状を作るオバアサンが居たことも・・・。
 新しい事に立ち向かう為に年齢制限はないと思いつつも、『動き始めた汽車に何時乗るか?』・・・  動き始めた汽車にはもう乗れない・・・  人それぞれに新時代への転換期だったかもしれない。今思えば、其々に思いついた時が、一番の好機だったような気がするし、何よりも時代が後押しして呉れた気もする。丁度『ミレニアム』と云う言葉が流行った頃だし、『ウィンドウズ』と云う OS(基本ソフト)がリリースされて以来、次第に個人用のPCが普及し始め、ノートブックスタイルの小さなPCが更に普及し始めた頃だったから、何かの切っ掛けで大きく変わるところまで来ていた。
 その一番の切っ掛けはインターネットの普及。ITと云う言葉そのものが初めてだったし『IT革命』と云われても殆どの人はピンと来ない。それでも『ミレニアム』と共に『IT革命』の波がやって来た。

 時のM総理が、情報のハイウエー構想を訴えた時、国民のどれだけの人が信じたのだろうか? そして、総理自身も、当時言ったことの数十倍も発達した世の中に驚いて居ることだろう。

 今回も標題と掛け離れてしまった。どちらにしても、PCとITは趣味の世界でも、深まれば深まる程、その恩恵にあずかる事に気付く。 

 で、それはそれ。

 暇が有ったら、  電卓に 142857 を入れて、掛けて見ます。xが並び、xの倍数で上の桁と下の桁と足すとが並び、それ以外は142857になります。

それはそうと、大阪三国にタイガー計算機が有ったのか、阪急宝塚線で神崎川の鉄橋を渡る時、ドブ川の様な強烈な悪臭が漂って来た辺りの、三国の駅から、その看板が見えた事が思い出に有ります。

そして、あの川は綺麗になっているのでしょうか。
そして、日本の何処かに 拘りで未だタイガー計算機を使っている人が居たりして・・・

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異空間発見 ( 松江競馬場 の名残? )

浜乃木地図1975年頃の話だが、今もきっとそうなんだろうと思うことが有る。
梅田(大阪)から松江に転勤し、3ヶ月程経った頃。 松江市内の浜乃木に、ある不思議な空間を見つけた。

修理依頼を受けた住宅街の個人スーパーを探しながら、道なりに車を運転すると見覚える場所に出た。それもその筈、先ほど探し始めた元の場所に戻っていた。・・・

今走った道路は長手方向450m、幅(間隔)150mで一周約1kmの幾何学的な楕円に為っていた。何故人為的に楕円の道路を作ったのだろうか?

最近は都市計画で新しく住宅街に道を新設する時、碁盤の目状で無く、新しい発想で "直線でない道を作る場合も有る。しかし、町並みは古く、新感覚の都市計画区域でもない。

見知らぬ街のどうでもいい事なのだが、何時もの癖で何故か気になる。用件が終わった後、スーパーの社長に聞いてみた。
 即、明快な回答が帰って来た。
  『此処は競馬場の跡だから・・・』

帰り道、改めて見直すと、道路の両側は民家に囲まれているが、楕円の道路は競馬場のトラックそのままだった。スーパーの近くにあったバス停や電柱の銘板にも”競馬場”の名前が有った。

昭和の初めは、日本各地に同じ様な競馬場が有った様で、その例に漏れず此処にも数年間在ったらしい。大戦の前だから、その時点で既に40年も昔の事だった。
そして、閉鎖後は住宅地になったらしい。やはり楕円の道路は当時の競馬場のトラックそのものだった。

そしてそれから、40年近く経った今、改めて地図を探してみると、今も当時と同じく競馬場のトラック状の道路が載っていた。(グーグルの写真は最下に)


そう言えば当時は至る所に個人のスーパーが有った。
丁度今NHK BSで”おしん“の再放送をしている。田中裕子から乙羽信子に変わって、個人商店からレジスターを置いたセルフサービスの”スーパー”に変わった頃を放送している。


並べれば(置けば)何でも売れる時代で、日本の津々浦々に『◯◯商店』からセルフサービス形式に変えた個人スーパーが増えた。先見の明が有った極一部は、更に大きなスーパーになる。
やがて、その大手のスーパーが日本各地に進出し、あれ程有った個人経営のスーパーは、いつの間にか消える。
しかし、その大型スーパーもコンビニエンスストアーの出現で雲行きが怪しくなった。
当時は若者のメッカだったコンビニも、後期高齢者に無くてはならない 地域の店舗 として台頭して来た。

どの業界も同じだろうが『安泰』という言葉は無い。


そして”おしん”で田中好子 演じるチェッカーが打っているチェックアウトのレジスターに懐かしい ヨキミセサカエル の8個の部門キーが見えた。

当時、大型店では、ズラリと並んだレジスターに、若いチェッカーが神業の手先きで、金額と部門を打ち込んでいた。やがて8つの部門管理から、バーコードを使ってレーザースキャナーで読取り、ビッグデーターとして、様々に利用できるpos(ポスシステム)になった。
そして、神の手先を持つ若いチェッカーは次第に消えて、パートのおばさんたちが、レーザースキャナーでバーコードを読み取るチェックアウトの光景に取って代わった。

 それはそうと、此処に在ったスーパーは、その後どうなったんだろう。

(下の写真は現在の浜乃木地区の航空写真。今の町内会の案内板には楕円の道路がはっきりと・・・)resized_keibajyou2
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生活センター の頃

sa-kasu  ついこないだの事の様な気がするが、ポスターの開催日の日付を見ると、遥か!昭和56年だった。
 サーカスを見た記憶は無いが ”生活センター”(概ね現ラピタ西側の駐車場)に、大きなテントが建っていた様に思う。

 
 此処のチェックアウトのレジスターも、そろそろPOSシステムに変わろうかという時期。大量消費の真っ最中。日本各地に大型スーパーが進出した時代でした。

”生活センター”では遠隔地の組合員サービスの為、ママさん号 という移動販売車が4台有り、フル稼働していました。 スーパーの全盛期であり、この後、都会ではコンビニエンスストアー(コンビニ)が雨後の竹の子の様に出来始め、名だたる大手スーパーの雲行きが次第に怪しくなる少し前の、スーパー黄金の時代です。

 そう言えば、此処に4台有った移動販売車の番号は ママさん号1号車、2号車、3号車と番号が増えて、最後の4番目は4号車とならず、 寿(ことぶき)号だったと記憶します。

その頃の、山の谷間を走る寿号の勇姿を見たいと思いますが、関連の写真は残念ながら有りませんでした。

移動購買車には、補給車両部隊が待機していて、売れ筋商品の補充に、移動購買車の後を追いかけたり、先回りし、待ち構えたり、東奔西走していました。 物は並べるだけ売れた時代でした。

因みに、車載レジの交流100ボルト電源は、車のバッテリーから直流モーターで、交流100vの発電機を廻していました。今なら半導体パワー素子のインバーター電源でしょうけれど。・・・

 当時のレジスターは ヨキミセサカエル の8つの部門キーが有って、売り上げを8つに分類していました。
それから、数年すると、バーコードが商品に付き始め、部門管理を通り越し、単品管理の時代になりました。バーコードを読み取る、半導体レーザースキャナーが設置され、スーパーのチェックアウトのスタイルが変わりました。

世の中にダイナブックという小さな汎用の小さなパソコンが出る少し前の頃です。

 生活センター(スーパー)の駐車場に、このサーカスが来た時、長雨が続くと、一緒に移動して来た、像や虎を初めとする動物の臭いが強烈だった事を覚えています。

そう言えば、スーパーマーケット業界では、よく売れる商品を「売れ筋」、 その逆を「死に筋(シニスジ)」と言っていましたが、今もそうなのでしょうか・・・


どちらにしても、ズーット、ズーット昔の事です。

 

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